「かわいい子には旅をさせろ」といういいまわしが頭にうかぶ、7月。
いやだ!旅させたくない〜!
と、大きい声で言いたいけれど、時すでにおそし。
家から車で8時間かけて、リヒテンシュタインで行われている音楽の夏期講習会に娘を「置いて来た」あと、「だいじょうぶかなあ〜、一日目はいつだって落ち込む人だからなあ〜」と思っていると、案の定。
携帯会社のGo Europeというオプションで、ヨーロッパ圏内でも一日3ユーロの金額でベルギー国内と同じように通話+メッセージをできる、というものに申し込んだのはいいが、「リヒテンシュタインはスイスフランを使っているけれど、このオプションではヨーロッパに入るのか?」を調べていなかったので、確認して「OKみたいだから、必要なら電話していいよ」とSMSしたとたん…
「1日目のレッスン最悪だった…。」
と電話が。
そのあと、「xxx時間も練習したのにぜんぜん弾けなかった」「先生の言ってることがよくわからない(娘は仏語の人なのに、そこではドイツ語と英語なので)」「コンチェルトのはじめしかひかせてもらえなくて、明日は練習曲だけ持ってくるように言われた」…
たしかに、ベルギーの中学4年生(=高1)の厳しい学年末試験が終わった直後で、いまいち練習しきれない状態で行ったので、いま1日何時間も練習していてもまだまだ勘は戻って来ないはずだと思う。今ついている先生の紹介で行ったのだから、講習会の教授が素晴らしい先生なのは間違いなく、ある意味「先生のなかの先生(Maitre des Maitres)!!」の前で、他の受講生や、伴奏のピアニストも「凝視」している中で弾くのだから、かなりきついのも、もっともだし。
このあとはおきまりの、
「もうできるかわからない」「どうして自分みたいなのがここにいるんだろうってみんな思ってるんじゃないか」「将来音楽家になるって決まったわけでもないのに」
帰りたい。びええええええええええんんんん(泣)
…こういうことを書くと、内情をさらけだすようで本当に娘には申し訳ないのですが(おこられそう)、私にも全て身に覚えのある、ありがちな愚痴なのではあります。こういう日が、音楽をやっていると必ずある。スポーツをやっている時にもあった気がします。そういうときは、しょうがない、誰かが聞いてあげるしかない。
ヴァイオリンのような楽器は小さいときに始めるので「自分で選んでないのに」「何故わたしがこんな苦労を?」という心も、どこかにいつもあって、追いつめられて辛い日にはそれがまた頭をもたげてくるのでしょう。
わたしが自分でも最近感じるのは、「何故音楽を娘に『やらせ』つづけなければいけないのか?」という疑問です。4歳から音楽をはじめて16歳になった今、そろそろ大学はどうするか、などの大きな決断を前に、そのことは一種のプレッシャーになりつつあります。
ふつう大学生になればピアノのレッスンも親は払ってくれなくなるので、私自身の場合、
「どうして音楽をやりつづけるのか」
を決断する16歳だったと思いますが、娘の場合、周りが音楽だらけなため「やるのが普通」の中で違う道を選ぶのなら、
「どうして音楽をやめるのか」
を決断しなければいけない16歳なのだと思います。
「ヴァイオリンの先生が、どうして『筋がいいよ』と言ってくれるのか?どうして(たまには)巧く弾けて私たちも心がきゅんとして涙が目に浮かんじゃったりするようなことがあるのか?才能のある生徒、って言ってもらったことがあるのは何故なのか考えたことある?」
そう訊くと、少し沈黙があったあとで、
「何故なのか全くわからない」
と言う。
「才能って何だと思う?」
ということを、6月の末に一緒に数学の試験勉強をしたお友達が来ていてみんなで喋った時に、そのお友達は
「数学なんかでは、ひとつ言ったら10ぐらいぱーっとわかる子のことだと思う。努力してひとつひとつ暗記しなくても、自然に公式と公式のつながりがわかってしまうような。」
と言っていた。ポイントは『努力しなくても』だ、と。
娘にとって、ヴァイオリンほど(やりたくないときも)努力しなければいけないものはないのかもしれず、じゃあ、あなたは才能がないってこと?
「ママが『知っている』ことは、あなたはすごく耳がいいらしい、ということ。まわりの大勢のプロの楽器奏者を聴いたときに、普通にみんな耳はもちろん良いのだけれど、『あれ、この人はものすごく音程が正しいな』と思う人ってちょっとしかいないでしょ?それ、あなたは3歳のときから、わかってなかった?そんな人が、おとなになって、音楽をちゃんと勉強しなかったことを後悔しないかな?その時、『ああ、自分ならこう弾くのに』と思ってしまう心をいったいどうする?」
いま、自分たちはこの半年話さなければいけなかったのにきっかけがつかめなかった話を、やっとしているんだ、と感じました。
ながいながい、距離が遠いので息づかいが聞こえない沈黙のあとで、
「ママの言いたいこと、わかる。」
わたし自身、必死になって考え、ことばにしたせいで、親として自分の抱えていた疑問が少し解けた気がします。
「先生が、もしもいらいらしてイジワルになっていると思ったら、それはもう、『合わなかった』ということだから、その時はすぐに帰っておいで。そういうことで辛い思いしたらだめだから。そのときはすぐに迎えに行くから。どうする?」
今から3年前、自宅から車で2時間の、ベルギー南部での夏期講習会初日も、夜、電話でおいおい泣いて(そのときは普通に仏語なのに、シャイで友達をすぐに作れなかったばかりか、ちょっと好きだった子に無視されたこともあり、)まだ13歳だったので夫婦で車をかっ飛ばして会いに行き、いろいろ喋り、そのあと無言で裏庭を一緒に散歩して、
「どうする?帰りたいなら帰ろうね。」
と言ったんだよなあ…
と、なつかしく思いを巡らしていると
「うん。もう、大丈夫。
頑張る」
娘はそう言って、
…なぜかそこで彼女の携帯が切れた
(電池切れということがあとでわかった)
かわいい子の旅、つきあう親のさびしいことといったら表現しきれないぐらいだけれど、旅に出さなかったら、きょうもまた、朝起きて「練習何時からする?」出掛けるといえば「練習したの?」…の魔のスパイラルを繰り返していたと思う。
「親とか、誰かのためにヴァイオリンをやる」のはそろそろおしまい。
娘の人生だから。
うわああああああああんんん
私も修行が足りない。
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