東北大震災から丸2年がたちました。
破壊された原発の大きな被害が今でも黒雲のようにわたしたちの上に浮かんでいる状況で、震災以前とは全く違う生活をし続けなければならなくなってしまった多くの被災者の方々。大事な家族や友人を奪われ、家も街も失ったまま2年間を暮らした方々。震災のあと様々な理由で命を断ったり、病に倒れた方々。子供たち。それから…動物たち。
新聞記事や手記をネットで毎日読んでは、非常に強烈に心に覚えています。
祈ることしかできない、と思う日もありますが、心に覚えて祈るという行為は繰り返すうちに身についてゆくものです。今日の昼のランディドルグ・コンサートは、どうしても私が弾きたいと思っていました。聴く人みんなに祈ってもらうために弾こうと思いました。
朝から降り出した雪が、ちょうどお昼頃には風も出て吹雪き始め、教会に来る人が少なくなるかと案じましたが、普段80人ぐらいのところ、今日は結局100人近い人たちが集まってくれました。
私はだいすきなデュルフレの組曲を大事に弾こう、と考えていたのですが、その前に何を弾くかなかなか決められなかったのです。何の曲にしても、黙祷に近い時間をまず作りたいと思った。
そして急に思いついたのが、フィリップ・グラスによるオルガンのためのダンス第2番。
練習はしてあったけれど演奏会では出番がないままだった曲のひとつでした。
レジストレーションの指定がないので、最初はとても小さい音で遠くから聴こえるように弾き始めました。表記してある通り、全ての繰り返しと全ての「変奏」を弾くと、ものすごく長い時間、同じ音形が延々と続きます。今日は後半に組曲を入れたかったので、1から14までの「変奏」を弾きました。この12分ぐらいの短縮ヴァージョンでも、とにかく延々と(演奏会後に「トランス」と表現したお客さんがいましたが)、ニューエイジ的なマントラのような音形が一拍の息継ぎもなく続きます。風景の点描のような音の流れ…。形にならない形。
これのどこがダンスなのか?練習し始めたときにはわからなかったこと。
弾いていて思いうかんだのは、村上春樹の小説、「ダンス・ダンス・ダンス」。
羊男が「踊り続けるんだ。ステップを間違わないように注意しながら。絶対に止まっちゃいけないんだ」というようなことを、人生に行き詰まった主人公に何度も言う場面。
同じ音形が続きすぎるせいで、だんだん腕が痛くなってくると、「そうだ。ステップを踏み続けるんだ。」と言い聞かせている自分に気がつきました。
譜面を見ていても同じ音形が続くので、意識が遠のきそうになります。
するとアルペジオのなかでたったひとつだけ違う音が入り込む。
かすかな変化が生まれる。
気がついたらもとの音形に戻っているので、あれは聴き間違いだったのかと思う…
錯覚のような微々たる違い。
繰り返し。
繰り返し。
祈る時間が音の向こうに流れる。
わからないぐらい少しずつストップを加えてゆき、だんだん祈りが意識の表面に出てくるかのように音響を増大させました。
そのあとはこれまでに何度弾いたかわからない、デュルフレの組曲。
最初のプレリュードは「遅い」動きで音が入りますが、その裏に、きょうはさっきのトランスでデジタルな音の粒子がびっちり入り込んでいます。
ダンスの八分音符がプレリュードの十六分音符に染み付いた。
すると、普段と違う、うごめきが生まれました。
いつもよりもおそい、哀しみが多いテンポになりました。
続くシシリエンヌもトッカータも、全部の音が祈っているので、音の背景が違ってみえる演奏になりました。
「きょうは絶対来たかったのよ。雪が凄かったけど、来てほんとうに良かった。」
そう言って帰って行く人もいれば、
プログラムにメッセージを書き込んで渡してくれた人も、
「これを、被災地の何かの足しにしてあげて。少ないけど、持って行ってね。」
とお金を包んでくれた人もいました。
今日私が受けた拍手は、東北大震災の全ての被災者の方たちのためのものです。
プログラムの中に、
「本日のプログラムは、日本で2011年3月11日に津波の被害で亡くなられた方たちと、
福島の原発の被害のために現在も非常時の生活を続けることを強いられている何万人もの方々に捧げます」
と仏語と蘭語で表示してもらいました。
私たちは忘れていません。
ブリュッセルではJapan Weekもこの日から始まり、ひきつづき震災基金のチャリティコンサートなどが開催されます。また、今日は、ベルギー各地で講演会や祈祷会が行われたようです。
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