おるがにすと・クロニクル Chronicle of an Organist

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子守唄

ヴァイオリンケースのふたを開ける音
それから弓を取り出す音がすると
猫は「部屋から外に出たい」と「言う」。

BVW1002のアルマンドが悪いのではない。

ヴァイオリンの練習がはじまれば
猫用の耳には高音過ぎるヘルツが鳴り出すことは必至だから
わたしは立ってドアを開けてあげる。
猫は部屋の外で聴けばいい。

楽器は鳴り、歌い、繰り返し、
温かくなって楽器ケースに少しの間休ませられる。

弦に飽きた指が鍵盤に休憩しに来る前にわたしは立ち上がり、ピアノに座る。
オルガンのためには書かれていないBVW1002の音のアタマから、
あこがれと嫉妬の気持ちを押さえられずにピアノで探し当てて行く。

気がつけば左手は通奏低音をつけはじめ
みつけられなかった和音は戻ってひろいなおす。

砂のようにこぼれていく時間にしるしをつけていくような
バッハの音符ひとつひとつを
ビーズつなぎみたいに注意深くたどっていき、
最後のカデンツが空気をふるわせたら
あとは指を鍵盤から上げなければいけない。

なんて惜しい。

次のページも触っていいかな。
ヴァイオリンの気持ちを傷つけないように
ピアノは遠慮しながら先を読みすすんで行く。

ぱらぱらめくって探してみると
BVW1005はそこに泰然と構えていた。
はちょうちょう。
と、ひらがなで書きたくなる調。

ピアノがだんだん羽ばたいて行くような
スラーの音型をアダージョでなぞっていった時
わたしはじぶんの肉体が色薄くなってきた気がした。

そのとき目の前にア・ラ・ブレーヴェのフーガが横たわっていた。
それは予兆のような、ひとつ向こうの世界のような、あるいは「知らせがある」というような
風采でそこにいた。


「ママが死んだらこれお葬式で弾いてもらえるかな。
あの、うん、全部、このBVW1005。
フーガは、もちろんさあ、『正しいテンポで』。
あ、でも、自分のお母さんのお葬式ではやっぱり弾けないよねえ、
…誰かほかのひとに弾いてもらおうね。」


あいかわらずの妄想母が深く考えもせず口走ると
娘はひとこと
「いいよきっと弾いてあげるよ。」
何故か殊勝な感じの小さい声で答えた。

冗談だけどね、ホラ、バッハがあんまりこうだから、へへへ…

わたしは立ち上がってソファに移った。

やっと空いたので娘はピアノに近寄ると
昔習ったインヴェンションを弾いた。

聴いていたらもっと弾きたくなって椅子を奪い返し
ゴールドべルグ変奏曲の主題を弾く。
ヴァイオリンみたいに弾いてみた。

ひとしきり
アポッジャトゥーラやダブルモルデントのしるしを
「どうやって弾くのお」
と知りたがる娘に説明し
二人でフレーズごと互い違いに弾きっこしたあとで

娘は立ち上がると
BVW1005をヴァイオリンの譜面台に乗せた。

はちょうちょう。

はちょうちょうだから、初見できるよ。という顔をして楽器を構えた。

そうしてむずかしいダブルストップのたびに
400メートル障害を練習するアスリートみたいに集中して
注意深く指を弦にならべ
弓をひとつひとつまっすぐ当て
転調しながら
主題が裏返しになるところまでゆるやかに読み進んで行った。


体の中身が部屋から抜け出して宙に浮かんで行くみたいな夜。


ゴールドベルグとは誰か、訊かれたので、その話を少しした。

そうだねつまり夜の音楽なんだ。
さいごにアリアが戻って来たときは、子守唄みたいにひっそり弾くのかな。

眠れたかねえ!その人。
そのひとがやっと寝たら、ゴールドベルグさんほっとしただろうね。

そういえば、ゴールドベルグ君ってあんたぐらいの年齢だったんだよねそのとき。



「少し死んだ」ような、さみしい気分になった夜だった。



でも


狂おしいぐらい祝福された気持ちでもあった、かもしれない。















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by momoyokokubu | 2012-05-05 08:17 | 鍵盤楽器