おるがにすと・クロニクル Chronicle of an Organist

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受難の作品

受難節が近づいてくると、演奏会が増えます。

「キリストの受難」のテーマで、カンタータやオラトリオ系の、合唱とオルガンという作品が数多く書かれているからです。過去形ではなく、あえて現在形で書いたのは、今年もそのテーマで新しい作品がたくさん生まれたから。新しい作品に加え、バロック時代からあまりに多くの素晴らしい作品が存在するため、演奏会をする口実には事欠かないし、毎年バッハの受難曲のうち、ヨハネかマタイのどちらかを聴かなければ春を迎えることはできない、という方も多いようです。

何故にこのような演奏会ラッシュがおこり、演奏家たちは飛び回っているのか。

それはやはり「教会」に需要があってたくさん書かせたものが毎年のように各地で増え、さらに古典となった作品もぜひまた演らなければ…的な、「今でないとダメなんです!」という、受難節特有の文化現象なのだと思います。

あえて「文化」現象と書きたくなるのは、たとえば私や家族がクリスチャンだから、受難節を「個人的」に大事に考えているという事とは別に、「普段は教会なんか行かない」という人たちも、そうした受難の主題の演奏会には大勢来るからです。そして信仰の心は持ち合わせていないけれど、音楽作品が素晴らしいから演奏したい、と引き受ける演奏家のみんな。

そのように、「音楽作品が素晴らしい」とみんなに伝わっているということは、作曲家たちは伝道をしているということになります。作曲するひとたちは聖書を理解していなければ作品を書くことができない。そして信仰の心がない作曲家は受難の作品を書くことはありません。

オランダ語の「俺、シモン。」という、キリストの弟子のひとり、シモンの目から見た受難の文章を、私の弾いている教会の教会員で、学校の先生をしている若いR君が書き上げ、そのあと彼が趣味で歌っている合唱団の指揮者でこちらも若き作曲家のペーター・スパーペン君がミニオラトリオに仕上げた作品を、わたしもオルガン奏者として今年は一緒に準備して3回公演します(今2回終わった所)。合唱で歌っている人たちも若く、ぜんぜん教会には行ってない。だけど一緒に新しい、「厳しい物語」を立ち上げるいばらの道を歩むことができました(細かい説明は抜きにしますが、まさしく「いばらの道」だったのです)。

受難の物語って、これ以上ひどい話はない、という話なんですよね(わかっちゃいるけど)。

それを、「これ以上大きい愛の物語はない」と言って表現するのですから悲劇なんだかハッピーエンドなんだかわからない。というところがあります。何しろ、復活劇、ではなく、受難劇、であるところがミソなのです。バッハの「マタイ受難曲」の最後が「あの」曲ではなくて、「キリストはよみがえりたもう!」の賛美歌だったりしたら、ここまで演奏会をやるかな?と思います。

イエスの十字架の物語は「まさか、そんなことになるなんて……とりかえしのつかないことをしてしまった」と、その場にいた人がみんな真っ青になった、その感情を忘れないことが主眼に置かれているように思われてなりません。

そのあとで、復活するイエスを順番にみんな目の当たりにするのですから、なんというどんでん返し。なんか怖い様な物語なのであります。

でも、復活してみんながびっくりしているのを見て、「最初から、復活する、って言っといたじゃん…」と、イエス様がなじるんだよね…などと思い出すと、毎年、受難の曲を演奏するたび、この2000年前とは思えないエピソードにばかみたいに感心してしまう私。

受難の作品を練習しながらも、同時にリハーサルが始まってもうすぐ演奏会が始まるのが、バッハの「モテット全6曲演奏会」。曲の最後に、アーメン、とか、ハレルヤ、という歌詞がついているのがありますが、歌ってる人たちは別にクリスチャンじゃない人も多い。まあ、書いてある歌詞がそうだから、「神を賛美します!」って言ってます、という感じでしょうか。ただ、曲の初めから終わりまで、その複雑なポリフォニーをひとつひとつ「落とさないように」、ずれないように、全員で紡いで行く作業がわたしたちの耳と心を研ぎすまし、ほとんど5感を統合せざるを得ない、さらにそれを超えた所に行かざるを得ないぐらいの集中と緊張を強いるので、最後にポリフォニーが止み、同時に「アーメン」や「ハレルヤ」の文節を完全にクリアな形で同時に発声するとき、

「癒された」

という思いにその場が満たされてしまうのです。

何かの前で、

「ああ。」

とみんな一緒に言葉も無くたちすくんでしまう、あの感じ。

そんなとき、宗教というのは、枠でしかないのかな、と思います。
枠でしかないとしても、この感じを表現するために、ここまでの枠組みを使っているんだ、という。
おおがかりな、宗教というもの。

しかし、さっき受難作品の作曲家はキリスト教伝道をしている、と書いたけれど、「伝道のため」に書いている訳ではないと思う。創作のエネルギーは、枠にあてはめるようには発揮されるものではない、とも思う。

音楽では、音程とリズムという言語で書き表された「誰かが確かにこう生きたのだという証」を、「キリストの受難」の物語に乗せてある。だから、わたしたちも(追)体験できる。


キリストの受難だけれど、みんなの受難であり、わたしたちはいつかみんなと「声を合わせたい」と思っているのだ、…という事を思い出させてくれる季節です。普段はつい、忘れて暮らしている事なのですが。





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by momoyokokubu | 2012-03-27 21:29 | 鍵盤楽器